1893年6月21日、安中花子は山梨県甲府市で誕生した。
本名は、安中はな。「安中花子」というのは、のちに自身に付けたペンネームで、公私ともに花子を名乗るようになり、結婚して姓が変わると「村岡花子」として知られるようになった。
父は安中逸平、母は安中てつ。
父はクリスチャン(キリスト教徒)だった。花子も2歳の頃にキリスト教の洗礼を受け、クリスチャンとなった。そして、このことが花子の生き方に大きく関わっていくこととなる。
花子は安中家の長女として生まれ、のちに7人の妹・弟が誕生した。
しかし、安中家で暮らしたのは次女の安中千代と、三女の安中梅子だけだった。他の4人は養子に出されるなどして安中家を離れていったからだ。
花子が5歳の時、一家は東京・南品川に移住する。父が葉茶屋を開店させ、新しい生活が始まった。
7歳になったある日、花子は大病を患った。無事に回復したが、花子は幼いながらも辞世の句を詠み、両親を驚かせた。
花子の成績は優秀で、花子が通っていた品川の城南尋常小学校では常にトップの成績だった。
(備考:プロローグとして1945年の花子が描かれるが、ここでは割愛。~花子とアン・原案「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」あらすじ・ネタバレ~)
1903年の春、9歳の花子は東京のカナダ系メソジスト派のミッション・スクール「東洋英和女学校」に編入学する。
東洋英和女学校は華族の子供たちが多く通っている名門の女学校である。東洋英和女学校への入学には「長女には優れた教育を受けさせたい」という父の思いが込められていた。
高額な学費が必要だったが、学費が免除される方法があった。それは、クリスチャンのみが利用でき、奉仕活動の義務や、一定以上の成績を保つことを課せられた条件付きの「給費生」の制度を利用することだった。
「華族の娘に負けるな」、父は花子を見送るときにこう言った。
花子は、給費生として東洋英和女学校に編入学すると、寄宿舎に生活の場を移した。寮母は加茂令子。花子も他の寄宿生と同様に、彼女には世話になった。
女学校では、実直な英語教師の小林富子や、姉のような存在の気高き上級生・奥田千代、生徒たちから慕われる副校長のミス・クレーグ、数学教師の井出由太郎との出会いもあった。
生徒たちは日常会話でも英語をペラペラと話していたが、花子はアルファベットの読み方すらも知らなかった。花子の猛勉強の日々が始まり、あっという間に一年の月日が流れた。10年間に渡る東洋英和女学校での生活の始まりだった。
1904年の夏の終わり。
新しい校長先生、「ブウちゃま」こと、ミス・ブラックモアが着任する。ミス・ブラックモアは行儀の悪い生徒に厳しい罰を与えることで知られた。もとは15年前にカナダから婦人宣教師として来日し、この東洋英和女学校の教師になったことが彼女とこの女学校との関係の始まりだった。
彼女は近寄りがたい存在だったが、英語教育のみならず、マナーにおいても、生徒の意識が向上するように熱心に努めていた。花子が慕う上級生の奥田千代も彼女を尊敬しているとあって、優れた教育者であることは間違いがなかった。そのとおり、ミス・ブラックモアは花子にとっても生涯の恩師となる。
1906年、花子が13歳を迎える頃には、30歳過ぎの女学生が東洋英和女学校に編入学し、彼女のことが話題の中心になる。
彼女は徳富愛子といい、小説「不如帰」で知られる作家・徳富蘆花の妻であることがわかる。花子は彼女に気に入られ、寄宿舎の彼女の部屋を訪ねるようになる。ところが、彼女はすぐに女学校からいなくなり、結局、わずか3ヶ月ほどの交流となった。
この頃になると、花子の英語の成績は常に上位で、読書が好きだった花子は図書室の洋書を次々と読み終えていった。花子は、東洋英和女学校が運営している孤児院「永坂狐女院」に奉仕活動のために教師として出向くようになった。
(備考:前任の校長先生はミス・キラム。~花子とアン・原案「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」あらすじ・ネタバレ~)
徳富愛子が女学校を去ってから2年後、今度は、22歳の女学生が編入学してくる。
その編入生・柳原あき子は、名家の家格を有する柳原家の次女。花子はあき子と親しくなると、学業においてもお互いに刺激を受け合う仲となった。
花子があき子に影響され、彼女が師事していた歌人・国文学者の佐佐木信綱に短歌を習いはじめたのもこの頃だった。花子は短歌結社「竹柏会」に入会。佐佐木信綱とのつながりが、歌人・片山廣子(翻訳者としてのペンネームは松村みね子)との出会いを生んだ。花子は片山廣子の本棚にあった近代文学の原書を借りて帰っては読みふけるようになる。花子は森鴎外が翻訳した「即興詩人」(アンデルセン作)の翻訳の妙に感動し、上質な家庭文学の翻訳こそが将来の日本に必要ではないかと思うようになる。
一方で、花子は政治家・杉田定一などの子供の家庭教師で得た収入を実家に送り、また、「婦人矯風会」の会報誌「婦人新報」の編集に携わり、誌面にて短歌や小説を掲載したりしながら、女学校時代の後半は過ぎていった。
1911年、花子は、あき子が政略結婚のために好きでもない男と結婚することを知り、ショックを受ける。結婚相手は、伊藤鉱業の社長・伊藤伝右衛門だった。
これはあき子にとって初婚ではなく、再婚だった。あき子は10歳代半ばという若さで結婚と出産を経験したのち、離縁して実家に戻り、再び勉学に励みたく、この女学校に編入学してきたのだった。
このニュースをきっかけに2人の間に諍いが生じ、花子はあき子と距離を置くようになる。
(備考:「柳原あき子」の「あき」は機種依存全角文字なので平仮名表記。~花子とアン・原案「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」あらすじ・ネタバレ~)
1913年、花子はミス・アレンの厳しい指導のもと、卒業論文「日本女性の過去、現在、将来」を書き、花子の論文は称賛を受ける。
春になり、花子は東洋英和女学校・高等科を卒業する。卒業した花子は寄宿舎に残り、婦人矯風会の会報誌の編集や、婦人宣教師への日本語指導などをして過ごす。婦人矯風会の会頭は80歳になる矢嶋楫子(かじこ)が務めており、メンバーでは守屋東と一緒にいることが多かった。
疎遠だったあき子とは手紙を通じて、ようやく和解。あき子はこの後、1915年に号を「白蓮(びゃくれん)」とし、歌人・柳原白蓮として名を馳せた。
また、これよりしばらくの間、花子はのちに外交官となった澤田廉三と交際していたこともあった。澤田との交際は、彼が1916年にフランスに出発する時まで続いた。
1914年、第一次世界大戦が勃発する。
花子はこの1914年から1919年まで、東京を離れ、生まれ故郷・山梨県甲府市の「山梨英和女学校」に英語教師として勤務していた。
山梨英和女学校は、東洋英和女学校と同じく女学校で寄宿舎もある。校長先生はミス・ロバートソン、寮母は神子田である。教師の中ではミス・ストロザードと特に親しくなった。
花子は教師をする傍ら、「少女画報」といった文芸雑誌に原稿を載せていた。少女画報は吉屋信子の小説が人気だったが、花子の寄稿に気付いた生徒もおり、花子は生徒の間で羨望の的となった。
花子は婦人矯風会の千本木道子や小橋三四子の紹介で、女性実業家の広岡浅子と知り合い、彼女の勉強会に参加することになった。そこで花子はのちに女性解放運動家となる小学校教師・市川房枝と出会う。女性であるがゆえに高等教育を受けさせてもらえなかったという広岡浅子。彼女の勉強会は、女性の社会進出について考えを深めるきっかけになる。
女学生時代、花子は幸運にも高等教育を受けられ、多くの英米文学を読むことができた。しかし、そういった少女は限られていた。花子は自分が感銘を受けてきた英米文学を後世の者たちが平等に読めるようになる未来を夢に描く。
1917年、花子はそんな希望を抱きながら、初めての本「爐邉(ろへん)」を日本基督教興文協会から出版する。
(備考:山梨英和女学校のエピソードは少ない。~花子とアン・原案「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」あらすじ・ネタバレ~)