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MRO 北陸放送

北陸放送株式会社(ほくりくほうそう、英: Hokuriku Broadcasting Co.,Ltd.)は、石川県を放送対象地域とする特定地上基幹放送事業者で、AMラジオ放送事業とテレビジョン放送事業を兼営しています。略称は、金沢本社送信所のコールサイン「JOMR(-DTV)」と、七尾中継局のかつてのコールサイン「JOMO」を組み合わせたMROです。複数のコールサインを合わせた略称は、日本国内のテレビ局では唯一の例です。

北陸放送株式会社は1951年12月24日に「北陸文化放送」として設立され、翌年の1952年5月10日に「ラジオ北陸」の名称で日本海側初の民間放送によるラジオ放送を開始しました。同年11月1日に商号から「文化」を外し、現在の「北陸放送株式会社」となりました。開局当初、北國新聞社は富山県と福井県を含む中継局を構想していましたが、実際には金沢局のみが開局しました。
テレビはJNN系列であり、Gガイドの番組データの配信も行っています。JNNにおける報道取材地域は、石川県および福井県嶺北地方です。かつては、石川テレビ、テレビ金沢、北陸朝日放送が開局するまでは、フジテレビ、日本テレビ、テレビ朝日の番組を一部同時・時差ネットしていました。リモコンキーIDはアナログ親局の6chから「6」となっており、キー局のTBSテレビと同じです。
ラジオはJRNとNRNのクロスネットで運営されていますが、かつてはJRNの単独ネットでした。北國新聞社との関係は、開局当初から地元大手紙である北國新聞社と深い関係がありましたが、1980年代に入るとテレビ金沢の開局支援を機に冷却化しました。しかし、2005年には再び関係を取り戻し、2007年には北國新聞社社長・主筆の飛田秀一が非常勤取締役に、2024年には北國新聞社編集局次長の森田奈々が常務取締役に就任しました。
北陸放送はその後、さまざまな変遷を経て、現在の形となっています。例えば、1980年代には北國新聞社との関係が冷却化したことを機に、毎日新聞社や中日新聞北陸本社との関係を深めました。1997年のCM未放送問題や周辺土地の不正取得等の不祥事が発覚した際には、オーナーである嵯峨家が経営の実権から退き、TBS(東京放送)から役員が派遣されることとなりました。
冷却化した北國新聞とは2005年になって再び関係を取り戻し、2007年には北國新聞社社長・主筆の飛田秀一が非常勤取締役に、2024年には北國新聞社編集局次長の森田奈々が常務取締役に就任しました。
北陸放送はまた、地元に密着した放送活動を続けており、数々の賞を受賞しています。例えば、『ラジオヒューマンスペシャル イルカにもらった優しい時間 ~私とスーミーの20年~』で2022年日本民間放送連盟賞ラジオ教養部門優秀賞を受賞し、『MRO開局70周年記念特番 ミツケテミ!いしか輪の夢の輪』でも同じく2022年日本民間放送連盟賞ラジオエンターテインメント部門優秀賞を受賞しました。2023年には『おいね☆どいね Holyday Special~境界線を考える~』で日本民間放送連盟賞ラジオ生ワイド部門最優秀賞を受賞するなど、放送局としての高い評価を得ています。
北陸放送の所在地は、本社が石川県金沢市本多町にあり、東京支社が東京都港区赤坂に、大阪支社が大阪府大阪市西区江戸堀に、名古屋支社が愛知県名古屋市中村区に、富山支社が富山県富山市桜橋通りにそれぞれあります。資本構成については、2006年3月末の有価証券報告書によれば、嵯峨逸平が筆頭株主でしたが、2007年9月末時点ではその持株比率が低下している一方で、北國新聞社の持株が増加しています。
1951年の設立以来、北陸放送は多くの重要なマイルストーンを迎えてきました。例えば、1952年に日本海側初の民間ラジオ放送を開始し、1957年にはテレビ局の予備免許を取得して1958年にテレビ放送を開始しました。また、1967年には羽咋中継局を開局し、1978年にはラジオの周波数を10kHzステップから9kHzステップに変更しました。
1980年代にはテレビ放送の音声多重放送を開始し、1984年にはラジオ七尾放送局の周波数を1107kHzに変更しました。1997年にはテレビCM未放送問題が発覚し、日本民間放送連盟から1年間の会員活動停止処分を受けましたが、その後も地上デジタル放送への対応を進め、2006年には地上デジタル放送を開始しました。
2023年にはFM補完中継局の羽咋局が本免許を取得し、2024年には七尾・輪島・山中の各AM中継局が運用休止予定です。

アナウンサー・気象予報士