TV
ytv 読売テレビ
讀賣テレビ放送株式会社は、近畿広域圏を放送対象地域とするテレビジョン放送事業を行う特定地上基幹放送事業者です。通称は読売テレビ、略称はytv(ワイティーヴィー)で、日本テレビ系列(NNN・NNS)の準キー局として知られています。コールサインはJOIX-DTV(大阪 14ch)で、リモコンキーIDは日本テレビ系列で唯一の「10」を使用しています。
読売テレビの本社は大阪府大阪市中央区城見1丁目3番50号に位置し、京都支局、神戸支局、東京支社、名古屋支局など、各地に事業所を展開しています。
読売テレビの設立には興味深い経緯があります。1953年、日本テレビ放送網は東京での開局に先立ち、大阪にも放送免許の申請を提出しましたが、当時の大阪地区の割り当て電波は2波しかなく、NHK大阪放送局と大阪テレビ放送(現・朝日放送テレビ)の2局に免許が与えられ、日本テレビの申請は却下されました。その理由は「日本テレビは東京地区を代表するもので、これが大阪で電波を出すのは"越境"である」というものでした。
この状況を受けて、当時の大阪読売新聞社社長・務臺光雄は「両紙を相手に部数を伸ばすには、自社系列のテレビ局を持つ事が必要」と確信し、読売側も大阪読売新聞社を中心に関西の財界などの出資によるテレビ局を作ろうと決心しました。そして、1957年2月に「新大阪テレビ放送株式会社」として設立の発起人総会を実施し、1958年8月1日に社名を「読売テレビ放送株式会社」に変更、同月28日に近畿地区では2局目の民放テレビ局として開局しました。
読売テレビの開局により、これまで大阪テレビ放送のクロスネット政策のため近畿地方に流れなかった日本テレビ番組のスポンサーの不満が解消し、読売新聞の西日本での部数増に大きく貢献しました。また、大阪を本社とする民放テレビ局のうち、関西私鉄の資本が入らず、読売新聞グループと野村証券関連会社で資本が構成されているという特徴があります。
読売テレビは開局以来、一貫して日本テレビ系列の局として運営されてきました。1966年4月1日にはニュース系列NNNが発足し加盟、1972年6月14日にはNNSに加盟しています。
読売テレビの歴史は技術革新とともに歩んできました。1960年9月10日には近畿電波監理局の検査に合格し、カラーテレビ本放送を開始しました。これは大阪地区ではNHK大阪放送局、朝日放送テレビと共に初めてのことでした。さらに、日本初のカラースポット放送も開始しています。
1962年6月10日には、電電公社のマイクロ波使用の東京→北陸→大阪へのテレビ下り同時ネット回線がカラー化され、日本テレビからのカラーでの同時ネット中継が可能となりました。1964年3月8日には、電電公社のマイクロ波使用の大阪→東京へのカラーテレビ上り同時ネット回線が開通し、これを記念して大相撲大阪場所の模様をカラーで中継放送しています。
1967年4月1日には日本テレビとの編成制作協定(N-Y協定)を締結し、同年11月1日には準教育局から一般局へ移行しました。1970年3月14日には、大阪万博の開会式を記念して、当時の日本民間放送連盟に加盟する全民放テレビ局が初の共同制作かつ同時放送を行う番組「幕開く日本万国博」のホスト兼送り出し放送局となりました。
1978年9月には1インチVTRを導入し、同月22日には音声多重放送の実用化試験放送の予備免許を取得、30日には本免許を取得しています。
このように、読売テレビは開局以来、技術革新と番組制作の両面で常に先進的な取り組みを行ってきました。近畿広域圏の視聴者に質の高い放送サービスを提供し続けるとともに、日本のテレビ放送の発展に大きく貢献してきた放送局といえます。現在も日本テレビ系列の準キー局として、地域に根ざした放送と全国ネットワークを通じた情報発信を続けています。