花子とアン・原作『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』

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花子とアン・原作『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』キャスト・結末までのネタバレ・あらすじ

花子とアン

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『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』あらすじ・ネタバレ

アンのゆりかご

このページは原案「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」のあらすじ、後半です。
前半はこちら

村岡敬三との結婚・出産

 1919年の春、花子は25歳。
 この頃には、女学生時代に姉のように慕っていた上級生・奥田千代は三共製薬の創業者のひとり、塩原又策と結婚。女性実業家・広岡浅子は1月に亡くなっていた。
 花子はプロテスタント牧師・植村正久の推薦によって、教師を辞め、東京の日本基督教興文協会(のちの教文館)の編集者に転職する。そこでは、編集を担当していた野辺地天馬や、花子が交際していた澤田の名を挙げて、イヤミをぶつけてくる松木といった苦手なタイプもいた。

 そんな花子を運命の出会いが待っていた。花子が翻訳した「モーゼが修学せし國」の印刷にあたった福音印刷合資会社、その後継者・村岡敬三と恋に落ちたのだ。敬三は妻子がいたが、妻が結核になり、別居状態となっていた。敬三は妻を気遣いながらも、この感染症に為す術なく、3年間も遠ざかっていた。そんな時の花子との出会いだった。
 それから2人は半年ほどで70通のラブレターを交わす。結ばれるまで時間はかからなかった。その年に結婚、翌年には第一子・村岡道雄が誕生した。
(備考:「村岡敬三」の「敬」の漢字は正しくは「イ」(人偏)に「敬」。~花子とアン・原作「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」あらすじ・ネタバレ~)

あき子の駆け落ち

 1921年、あき子が世間を騒がすこととなる。
 あき子が、記者・社会運動家の宮崎龍介と駆け落ちしたのだ。この時、あき子が夫・伊藤伝右衛門とお互いに新聞紙上に絶縁状と抗議文を掲載し、対立するさまは大いに騒ぎ立てられ、このスキャンダルは「白蓮事件」と呼ばれた。
 花子は、あき子が駆け落ちするほど好きな相手が出来たことと、その彼と一緒になれたことを嬉しく思う。2人は女学生時代の諍いから10年ぶりに再会する。あき子は妊娠し、幸せに満ちていた。翌年、あき子は無事出産し、長男の宮崎香織が誕生する。

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関東大震災

 1922年、花子を村岡家にあたたかく迎え入れてくれた敬三の父・村岡平吉が死去。
 1923年9月1日には、関東大震災が発生する。10万人以上が死亡、あるいは行方不明となった。この震災によって、福音印刷は壊滅状態。敬三の弟・村岡斎(ひとし)が帰らぬ人となった。斎は妻・村岡巴との間に長男のが生まれたばかりだった。
 一方、敬三の妹・雪子も、養女として入った水上家で家族とともに亡くなった。その水上家には、敬三と前妻・との間に生まれた7歳の嘉男がおり、同時に嘉男の死も伝えられた。

 花子は、敬三が印刷会社を再興できるように、夫に代わって働くことにした。花子は婦人矯風会や教文館で編集などに携わり、家族を支えた。
 1926年、夫婦はついに再興の第一歩として「青蘭社書房」という出版社及び印刷所を創立する。この創立には、尊敬する片山廣子や、婦人矯風会で親しかった守屋東による金銭的な協力もあった。
(備考:震災は敬三が取締役の座を譲り受けて1年も経たずに発生。~花子とアン・原作「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」あらすじ・ネタバレ~)

道雄の死

 関東大震災からちょうど3年後の1926年9月1日、花子と敬三のひとり息子・道雄が、当時流行していた疫痢にかかり、急死する。
 失意の底に落ちた花子は3ヶ月以上、悲しみから立ち直れずにいたが、片山廣子が紹介してくれた「ザ・プリンス・アンド・ザ・ポーパー」(マーク・トウェイン作)をきっかけに、家庭文学の翻訳家になる道をはっきりと見出す。
 花子は同じく疫痢で2人の子供を亡くした作家・前田晃と妻の徳永寿美子の協力を受け、同書を翻訳。「王子と乞食」というタイトルで平凡社から刊行する。

アン・オブ・グリン・ゲイブルズ

 その後の花子の環境はめまぐるしく変わる。婦人参政権獲得運動に力を入れる中、花子はラジオ番組「子供の時間」にレギュラー出演することになり、人気を博す。花子は少女画報に寄稿していた頃からお互いを意識し合っていた吉屋信子、歌人の今井邦子、小説家の林芙美子といった文学者とも親交を深めた。
 花子の妹・梅子には待望の第一子、みどりが誕生。道雄と同じ誕生日であることから、花子は運命的なつながりを感じ、みどりを養女として迎え入れる。

 そんな中、花子の友人で、日本の教育に35年間尽力してきたカナダ人婦人宣教師、ミス・ショーが帰国する。花子はミス・ショーから「私たちの友情の記念に」と、カナダの女流作家、ルーシー・モード・モンゴメリの著書「アン・オブ・グリン・ゲイブルズ」をプレゼントされる。花子が愛好し、多くの翻訳を手がけることになるモンゴメリ作品との出会いだった。
 花子は「アン・オブ・グリン・ゲイブルズ」の翻訳を成し遂げることに使命にも似た感覚をおぼえ、1941年に開戦した太平洋戦争のさなかにも、また、自身が感染症のジフテリアにかかり、入院を余儀なくされた中でも、懸命に翻訳作業にとりかかった。そして、戦争が終わった頃、翻訳作業はついに完了した。

 1945年8月15日、終戦。花子が強いショックを受けたのは、親友のあき子の長男・香織が戦死したという報せだった。
 さらには、1942年には恩師のミス・ブラックモアが亡くなっていたことが判明、1947年には父・逸平が他界し、花子は自身の人生に大きく関わった人物を続けて失った。
(備考:ラジオ番組「子供の時間」は開戦とともにやめた。~花子とアン・原作「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」あらすじ・ネタバレ~)

赤毛のアン・刊行

 1952年、花子が翻訳した「アン・オブ・グリン・ゲイブルズ」は、竹内道之助が社長を務める三笠書房から「赤毛のアン」というタイトルで刊行された。タイトルを名付けたのは、元・小学校教師で編集者の小池喜孝だった。
 花子は当初、「窓辺に倚る少女」というタイトルを考えており、「赤毛のアン」は気に入らなかったが、娘のみどりが「赤毛のアン」を気に入ったため、花子は若い感性にまかせて「赤毛のアン」を推薦することにした。花子は7年間で「赤毛のアン」シリーズ全10巻を訳了、ベストセラーになった。

 そんな中、花子は以前から夢に描いていた家庭図書館「道雄文庫ライブラリー」を開設し、多くの子供たちが本を求めて訪れるようになった。翻訳家・児童文学者の花子の活動は高く評価され、のちに藍綬褒章を授与されることとなる。
 また、この頃、アメリカの教育家・社会福祉活動家のヘレン・ケラーとの出会いも花子に大きな影響を与えた。
 1954年には、母・てつが死去。1957年には片山廣子がこの世を去った。

晩年

 1963年2月6日、夫・敬三が自宅にて心臓麻痺で他界。敬三の死は、花子に深い悲しみを与えた。
 一方、花子の娘・みどりは物理学者・佐野光男と結婚、長女・美枝を出産し、アメリカで生活していた。花子はみどりから招待され、1966年、73歳にして初めて海外に旅立った。
 みどりは「赤毛のアン」の生誕地、カナダのプリンス・エドワード島を訪ねるプランを考えていたが、花子は想像の世界にあるプリンス・エドワード島を大切にするあまり、カナダ行きを断った。
 1968年10月25日、花子はお手伝いの美代との夕食中、脳血栓により倒れ、永眠。75年の生涯だった。
(備考:プリンス・エドワード島にはいつか行きたいという意思は示していた。~花子とアン・原作「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」あらすじ・ネタバレ~)

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